掲載誌名:アントレ
日付:2001年10月号

タイトル:起業家たちの奇跡


唯一無二の価値「オンリーワン」を
絶対のスピリットとし、
既存のパラダイムの変革を目指す男

“異色の出版社”。98年に誕生したレゾナンス出版(現・レゾナンス)は、このわずかな期間で25冊におよぶユニークな出版物を次々に発行し、加えて、業界初の「ブックファンド」を創設したことで話題を集めてきた。 代表の近藤正純・ロバートもまた、日本興業銀行での華やかなキャリアに見切りをつけ、全く未知の業界に転身、起業を果たした“異色の人物”。 「自分の人生を主役として生きていない」「人生に明確なビジョンを持っていない」と気づいてしまったのが30歳を目前にした頃だった。
彼は、その疑問と正面から向き合った真摯な起業家である。

取材・文●内田丘子 撮影●押山智良

一律ではない、さまざまな
人や価値観に触れて
培われた自立心


「こちらがレゾナンスでしょうか?」という確認の言葉が、思わず口をついて出る。訪れたオフィス(東京・代官山フォーラム)が、あまりに“会社”らしくないからである。もっともらしい社名看板がなければ、受け付けもない。まるで美容院かと思うようなガラス張りの外観。中に入ってみれば、いろいろなカタチの家具調デスクが品良く配され、奥にはバーカウンターまである。社員は、この空間と設備を自分のスタイルで自由に活用すればいい。
 従来よりの管理型の会社制度を否定する近藤は、会社というものは、パートナーである社員たちが自分の好きなことでハッピーになる、リッチになるための支援環境として存在すべきだと語る。オフィスは、そんな信念のひとつの顕れだ。既成概念に左右されない独自の人事制度・環境づくりと同様、設立3年半にしてレゾナンスの名が世に注目されるようになった背景には、ユニークな出版企画や、「ブックファンド」創設に代表されるような新しいビジネス展開がある。そういった発想を生み出す土壌は何にあるのか。

   サンフランシスコで生まれて3歳まで居て、次は6歳までニューヨーク。そして日本です。で、中学2年生からはロンドンに行って、また日本に帰ってきて。親父が商社勤めで海外を転々としていたので、出たり入ったり……カルチャーショックの連続の中で育ちました。僕は日本人学校には行ってないんですよ。だから家の外では英語、家の中では日本語という環境にすごく混乱したみたいで、登校拒否になった時期もありました。幼いうちは言語を統一したほうがいいということで英語の勉強だけをしていたので、僕、 6歳頃までは日本語を話せなかったんです。日本に帰ってきて小学校に入学したときは、全然言葉が通じないし、もうわけのわからない世界でしたね。おまけに小学校の途中までは小児喘息で体が病弱だったので、よく入院してましたし。その頃の同級生にしてみれば、妙なヤツがいるなぁという感じだったでしょうね。

 成績はけっこうひどかったんですけど、親父が慶應だったんで中学からトライしてみろということで、イヤイヤながらも塾に通って受験、中等部から入学しました。そうしたら今度はロンドンへ転勤。一度は親と一緒に渡ったんですけど、2年続けて海外に居ると退学になってしまうので、今度は「お前一人で日本に帰れ」と。それからは都内を転々とする居候生活です(笑)。親戚の家とか、親の友人の家とか。ちょっと特異な子供時代ですよね。でも、だからこそさまざまな価値観に触れられし、唯一絶対に正しいなんてものはないということを知りました。アメリカ人にはアメリカ人の、日本人には日本人の、また家族単位でもそれぞれの流儀があって、それを理解して認めるということが僕には早くから必要でしたから。それなりに大変だった気もしますが、僕は図々しいんで(笑)。振り返れば、大きな財産になってます。



 高校生時代の後半に両親が日本に帰ってくるまで、居候生活は続く。「一番多感な時期はほとんど親と暮らしていなかった」近藤の自立心は、いやがおうにも養われた。そして家族と暮らすようになってからも、近藤は、世間の多くの人が抱いている“慶應ボーイ”のイメージとは違って、なかなか硬派な学生時代を送っている。



 高校生のとき、月のお小遣いって3000円だったんです。1日100円計算しょ。ジュース1本買うと、もう致命的(笑)。周りの友達とかはけっこう金持ちだから、月5万円なんてヤツもいるわけですよ。親に値上げ交渉しても「ウチの方針だ」と頑として譲らないから、新聞配達のバイトをしてました。これで稼ぎましたけど、ここでもいい出合いがありました。地方から出てきてる住み込みの人が多くて、新聞社の奨学金制度で大学に通っている学生さんとか。そういう人たちと一緒に働くことで、僕はまた、自分たちの周りにはない新しい価値観に出合えたんですね。
 大学に行ってからは、東京の三田警察署で、新人の警察官に剣道の稽古をつけるなんていうことを日々やってました。剣道は、小学校からずっとやってましたから。彼らって異常に元気ですからね(笑)。これもまた、別の出合い。まぁ確かに、硬派な世界ですかね。バンドとかもやってたんですが、だいたい朝は新聞配達やって、日中は剣道やってという感じでしたから、あとは疲れて寝るだけしょ。地味というか、汗臭い生活でした(笑)。

生き方を見直す転機と
なった海外派遣留学、
そして祖父が残した哲学


 近藤が大学を卒業した88年当時は、まさに金融流行りの時代。就職先として、銀行や証券会社が人気の高かった頃である。経済学部を出た近藤も例外ではなく、ごく自然な流れとして金融機関を希望し、就職活動を行った。そして、日本興行銀行に入行する。



 深い考えがあったわけではないんですよ。最初は外資系を幅広く回ってたんですが、その活動中に、人から「君だったら興銀を考えればいいのに」と言われて、それから調べたんです。で、行ってみたら、面白い人たちがいっぱい出てくる。そこで「興銀というのは収益性第一ではなく、社会性や中立に富んだ銀行だ。そういう視点での仕事を一緒にやらないか」と熱心に言われて、ここしかないと思ったんです。 業界や仕事に興味があったというよりは、人に惹かれたという感じでした。
 入行してからは、まずは東京支店で窓口業務をやって、その後は融資、取引先の新規開拓といった営業を4年ぐらいやって。その頃、興銀の営業スタイルはどうあるべきか、みたいな話があって、僕としては、取引先の経営戦略について議論できないと営業にはならないという結論を持っていたんです。日々、会社の経理に顔を出しているような都銀のキメ細かいサービスと争っても、かないませんから。経営戦略に食い込んでいかないと。たとえば、会社トップに会ってM&Aの話をするとか、海外工場の建設や移転について一緒に戦略を練るとか。でもそうなると、当然のことながら経営に対する理解がないと話にならない。それで経営を学びたいと考えるようになって、行内の海外留学制度に手を挙げたのです。



 当時の海外留学制度は、まず銀行内の選抜試験を受けて、そこから自分で行きたいビジネススクールを決めて受験するというものだったが、近藤は10倍近くの倍率を突破して、その権利を手にした。選んだ留学先は、米国コーネル大学経済学部。経営者養成のための専門学校に行けば、実際に会社を経営するトップにはかなわないまでも、世界のいろいろな会社が抱えてきた経営課題・解決策の豊富な事例を勉強できると考えたのだ。留学期間は2年間。近藤は「企業家精神」を専攻、MBAも取得したが、実はこの留学が、彼に決定的な転機をもたらしたのである。



 久々のカルチャーショックでした。ビジネススクールには世界中からいろんな人が来てるんですけど、誰もが、いずれは自分で事業を始める、社長になるんだという強烈な夢や意識を持ってる。中には職を捨てて、学費のために多額の借金をして来ている人もいましたから。僕はといえば、会社の派遣で行ってるわけですから、目的は興銀の営業の高度化みたいな話で、要は会社のためなんですよ。だから、仲間に 「お前は将来何がしたいの? 夢は?」と聞かれても、せいぜい「日本の産業構造が……」なんて、カッコつけた抽象的なことしか言えなくて。愕然ですよ。自分がどう生きたいのかをあらためて問われて、何もないことに気づいちゃったんです。自分の人生を主役として生きていない。結局は周囲の価値観とか、社会や親がそう言うからと物事を決めてきたわけで、人生を自分で決めることを一度もやってないと気づいてしまったと。30歳になろうというときに、これではマズイと思いましたね。通常業務から解放された全く違う環境に身を置いてみて初めて、多様な生き方があり得ることを理屈ではなく肌で思い知ったのです。
 96年に帰国して興銀に戻ったんですが、それから1年半ぐらいは悶々とし ていました。本当にやりたいことを見つけなきゃと思いつつも、それが見つからない時期で。この頃は人事部で海外人事制度を見直す仕事をしていて、日々忙殺されてました。その間、業界では不良債権問題が次々と起きてくるわで、自分は金融そのものが好きなわけじゃないし、この仕事が自分の夢ではないのにって。

   そんな気持ちのときに、僕の祖父さんが考案して書いた株式チャート『一目均衡表』を読み返したんです。祖父さんは相場の神様といわれた一目山人です。彼はもともと、東京新聞の株式欄を書いていた記者だったんですが、自分なりに研究をしていくうちに本業を見つけたんでしょうね。相場師として活躍してましたが、死期が近くなったと感じた頃に、この本を書き始めたようです。基本的には投資について説いた本なのですが、僕は、そのハウツーの奥にある祖父さんの哲学に興味を覚えたんす。本来のプロの金融マンの姿があったというか。当時、土地の値段は永遠に上がるもの、カネはずっと貸し続けるものとして行動していた、つまりバブルに踊った金融関係者を、ある意味戒めていたんですね。それで僕は、こういう本質的なメッセージを 世の中に広めていきたいと思い始めたんです。祖父さんの本の現代版を出す、そこに意義を見い出して、10年近くいた興銀を退職する決意をしました。

新しい価値観をメッセージ
する出版社設立を第一歩に、
踏み出した起業家への道


 近藤が興銀に「辞めたい」と申し出たとき、当時の人事部長は「君、相当疲れてるね」と、本気にしなかったという。いわゆるエリートとしての道を歩んでいた近藤の思い切った転身は、きっと周囲を驚かせたに違いない。
 そして退職後、まずは企画書を手に次々と出版社を回った近藤だったが、これがどうにも相手にされない。「売れないからダメ」。出版業界に関しては全く素人である、既存の出版システムの垣根は高かったようだ。



 頭に来たんで、それなら自分で出版社をつくろうと思ったんです。実は僕が興銀を辞めるとき、同じく興銀OBで今の副社長である高畑に相談にのってもらったんですが、話しているうちに、構想が広がっていったんですね。僕がやろうとしていることは、広義にとらえれば、21世紀の新しいメッセージをプロデュースして、この閉塞した時代に広めていくことじゃないかと。であれば、当初考えていた祖父さんの本の企画もひとつの題材だけど、他に面白いメッセージがあれば、それも題材にしていこうって。なのに、そんな構想があっても出版社との交渉がうまくいかないもんだから、自分でメディアを持つしかないという発想で、レゾナンス出版を設立したんです。
 設立当時の資本金は300万円。でもこれぐらいのお金って、アッという間になくなるんですよ。かといって金融機関は貸し渋り一色でしょ、融資を受けたくてもとにかく借りられない。そこで考えたのが「ブックファンド」です。金融的な視点で見れば、出版はハイリスク・ハイリターン、売れないと全くダメですけど、一発当たるとすごい世界ですよね。こういうビジネスには、プロジェクト・ファイナンスの発想が馴染むんです。それで、本の売り上げに応じて利益を還元するファンドを創設して発売したら、法人・個人から4000万円の資金調達が実現できたんです。マスコミにも取り上げてもらったことが追い風になりましたが、僕らにしてみれば、このビジネスでファイナンスがされてこなかったというのが不思議なぐらいで……。
 投資してくれた主体は、出版業界関連が多いんですよ。紙会社とか。これは僕たちが狙っていたことでもあるんですが、彼らにしてみれば、僕らが成功すればするほどメリットがあるわけでしょ。だからある意味、応援団がついてくれたようなものなんです。素人の僕らとは違って出版業界のプロだから、たとえば、書店回りをするならまず誰それに挨拶をしておきなさい、といった裏事情のようなものを教えてくれたり、営業面でも協力してくれたり。だからこそ、会社を設立してわずか3カ月後という異例の速さで、1冊目の本を流通させることができたんです。
これが、沖縄アクターズスクールのマキノ正幸先生と、慶應の島田晴雄教授との共著である『オンリーワン』です。ちなみに2年満期のファンドは、去年、最終利回り11・9%という好成績で終了することができました。

枠を超え始めた事業展開。
新たなビジネスモデルの
構築を目指して


 レゾナンスの書籍第1号のタイトルである、この『オンリーワン』こそ、近藤が再三口にする言葉であり、今、広がりつつあるすべての事業の根幹を成すスピリットとなっている。その人だけが、その企業だけが持つ価値、こだわり、強みを近藤らは、それをオンリーワンと呼んでいる。



 現在、レゾナンスは出版社であり、また広告会社、コンサルティング・ファーム、金融会社でもあるというように、既存の枠を超えた事業展開をしていますが、その根っこにあるのは、強烈なメッセージを持つ、つまりオンリーワンが明確な企業や人のブランド構築です。そして、そのブランドに対するファンづくり。
 たとえば、去年ウチがやって話題にしてもらったNTTドコモの広告展開なんかは、その事例のひとつです。ドコモのユーザーは意外なことに平均年齢がわりに高くて、もっと若い層にファンになってもらいたいという“お題”があった。じゃぁそれは誰なのか。ファンにしたいのは、若者のカルチャーをリードしている人たちでしょうと。それで僕らが提案したのが、発行部数は少ないものの、熱狂的な読者を持つクラス・マガジン10誌の裏表紙をジャックした広告展開だったんです。マス広告で登場しているタレントの存在は無視して、iモードのロゴもアレンジ自由。それぞれ全くのオリジナル広告でいいよみたいな話にすると、まずは、それを制作するデザイナーやクリエイターたちが「面白そうじゃん」とファンになってくれる。そういうことなんですね。こういった若者への生活影響力のある雑誌の編集長や、クリエイターたちと常にネットワークを持っていることも、レゾナンスの財産です。
 僕らは、従来のマーケティングを完全に否定しています。目的は認知にあって、認知さえされれば一定の人が購買する、あるいは行動するというのが、これまでのパラダイムでしょ。それって、こんなモノが溢れている時代、21世紀には通用しないですよ。我々のゴールは、企業のオンリーワンを抽出してきっちりとブランド構築し、ファンをつくっていくこと。何か突き抜けたメッセージがあってこそ時代に受け入れられる。そこに原点があるようなパラダイムを構築したいのです。



 オンリーワンの精神は、事業に対してだけでなく社内一人一人の意識にまで浸透している。レゾナンスの強みはここにある。会社の思想も環境も、そして取引先に売っている商品もオンリーワン。だから迷いや矛盾を抱えず走れるのである。



 でも、迷ったこともあるんです。事業が順調で、業界で注目されてきたこともあって、株式上場を一気に進めていこうという時期があったんですが、その準備のためにやらなきゃいけないことって山ほどあるじゃないですか。それを現実のマネジメントとして、皆に嫌なことを強制してしまったんですね。好きなことを徹底的にやろうといってスタートしていながら、優先順位を間違えたんです。大反省ですよ。だから今年になってから原点回帰したというか、やっぱり自分たちが本当にやりたいことを主軸にして走っていこうと。それで誰も追いつけなくなれば、自然に上場もあるでしょうと。
 この原点回帰に伴って、人事制度も「レゾナンス・プラットホーム」という新しいものにガラッと変えたんです。ウチは社員という言葉は使わないで、基本的にはパートナーでありプロデューサーなんですが、まずは、個々が何をやっているときが一番楽しいか、得意かという話を会社と確認し合う。そこに接点があれば、上下関係なしに一緒にやりましょう、そしてこの会社をプラットホーム、つまり支援環境として自分のために使ってくださいという考え方です。仕事としては、2人一組になってやりたいプロジェクトを提出してもらって、それがGOになると、会社は活動資金や人的コネクション、各種のアドバイスやサポートなどといったインフラを提供する。そして収益が上がれば、それをシェアするというシステムです。個人にとっても会社に とっても共にハッピーを追求する、そんな世界がもうあってもいいでしょ。  僕自身ですか? 僕は変革フェチなんですよ(笑)。何が快感かというと、とにかくチェンジすること。今の大きな夢としては、活力が減速しているこの日本社会を、「好きで儲かる」新しい社会に変革させることですね。

僕にとって、何が快感かというと、
とにかく変革すること。新しいことが
起きるのが楽しくてしょうがない。


1965.3
米国サンフランシスコ市に生まれる。両親とも日本人だが、米国で生まれたため両方の国籍を持つ。弟1人の2人兄弟。商社勤めの父親の仕事の関係で、日本と外国を行ったり来たりの転々とした生活が続き、早くから自立心旺盛な子供として育つ。

1988.4
慶應義塾大学を卒業後、日本興業銀行に入行ことさら金融業界に興味があったわ けではないが、興銀の人材と仕事の裁量の大きさに魅力を感じて就職。94年から96年までの2年間、米国コーネル大学経営大学院へ海外派遣留学生として渡米、MBAを取得する。一方で、自分の人生を見直す機会を得た時期でもあった。

1997.11
日本興業銀行を退職。留学によって、一度生まれた自分の生き方に対する疑問は消えることがなく、迷っていたときに再読した祖父の著作に感銘を受ける。それを契機に退職を決意、独立を志す。

1998.3
レゾナンス出版設立。資本金300万円の有限会社としてスタート(99年12月に現・株式会社レゾナンスに改組)。設立後間もなく「ブックファンド」を組成し、異例のスピードで最初のオリジナル出版物『オンリーワン』を発行。大型書店での大胆なPR活動も話題になった。

2000.6
斬新な発想のiモード広告展開が注目される。先端的な若者がキャッチした情報は 口コミで広がり、iモードの新たなファンづくりに大きな一役をかった。また、クリエイター情報誌『Tokyo Jammin'』を創刊。

2001.7
本社を東京・代官山に移転個性的なオフィスとして、これもまた話題を集める。事業を広げる一方で新しい人事制度も制定、新しいパラダイムの構築を目指して快進撃中。

会社DATA
■設立/1998年3月
■資本金/4億7130万円
■売上高/約5億円(2000年12月期)
■事業内容/出版事業、顧客企業のブランド構築・ファンづくりの支援

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