掲載誌名:夕刊フジ
日付:1999年9月3日

タイトル:好奇の人(4) 夢を追いかける男たち


幼少のころから身についた未知への挑戦心

「僕の現体験は、アメリカとイギリスで、いろいろな国籍の子供たちと友達になれたこと、それに日本で4カ所の家を転々とし、他人の家の飯を食わせてもらったことですね。これで僕の中に"多様性"が生まれたんだと思います」

そう語るのは、資金調達のために「出版ファンド」を創設したり、中小出版社の経営支援システムを打ち出すなど、出版業界に旋風を巻き起こしている「レゾナンス出版」会長の近藤正純ロバート(34)。

4カ所の家転々


---好きなことをやって生きていきたい。
近藤は、サラリーマンの道を捨て、独立した。
未知の分野へ挑戦するそのエネルギーはいったいどこから生まれてきたのか。

近藤は生まれながらにして2重国籍を持つ、国際人だった。1965年3月、2人兄弟の長男としてサンフランシスコに生まれた彼は4歳のとき、ニューヨークへ移住、幼稚園を終了するまで過ごした。

7歳のときに帰国し、小学校へ入学した。日本語ができなかったため、成績は常に平均以下だった、しかし、教育熱心な両親は近藤を日本語学校や進学塾へ通 わせるなどした結果、慶応の中等部に入学した。

父親は商社に勤務し、国際畑を歩んでいたため海外生活が続いた。アメリカから帰国して5年目には、イギリスに単身赴任。近藤の受験を控えていた家族は東京に残ったが、終わると母親は弟を連れてイギリスへ飛んだ。

両親は、近藤を自立心のある人間にしたいと思っていた。そのために中1の夏休みに渡英させたり、日本でも友人、親戚 の家を転々とさせたりした。イギリスへの旅は両親から1人で来るように言われ、パスポートから航空券に至るまで、全部自分で手配し、ソ連国営航空「アエロフロート」(現・アエロフロートロシア国際航空)に乗っての旅だった。13歳の少年にとってモスクワ経由の18時間の飛行がいかに心細く過酷なものであったか、想像に難くない。

13の時1人渡英

中2になると、今度は1年間の休学届けを提出し、イギリスのアメリカンスクールへ通 った。ところが、今度は英語がわからず、授業はおろか、日常会話も理解できなかった。クラスのみんなが笑っているとき、1人わらうことのできないありさまだった。

日本では、改めて中2からの学園生活を始めた。両親と離れて暮らすことは辛かったが、幼少のころの培われた多様性と協調性で、他人の家での生活自体は苦にならなかった。中1の時は両親の友人の家、中2からの2年間は叔父の家と母親の友人の家、慶応高3年間は、横浜の母親の友人の家---と4軒の家に預けられた。その成長過程での体験は近藤にとって自立心を養ういい訓練になった。

大学時代は、家庭教師、新聞配達などいろいろなアルバイトを手掛けたが、中でも最も勉強になったのは4年のときに1年間、コンサルティング会社「マッキンゼー」の調査要員としてテレビ番組のシナリオ作りに参画したことだ。その番組は、さまざまな仮説が立てられ、それを検証するという内容のものだった。

夢抱いて興銀へ


経済学部の学生だった近藤にとって仮説を立てて検証に入るというプロフェッショナルな仕事の進め方、考え方に触れられた意味は大きく、のちに彼の事業プランのアプローチ手法ともなった。

就職先はモルガンスタンレー、ゴールドマンサックスなどの外資系金融機関と決めていた。外資系では日本語ができることが武器になると思ったからである。

しかし、父親は外資系への就職には難色を示し続けた。
「---外資に行くのはいい。けれども、日本の企業も見て、納得してから外資へ行け」と諭され、三菱銀行、日本生命など日本の金融機関も回り始めた。日本興業銀行については、ある外資系企業の人事担当者からその存在を教えてもらうまで名前さえ知らなかった。

近藤が、就職先を興銀に決めたのは、担当者の次の言葉に心を動かされたからだ。
「---うちは儲けることが目的ではない。日本の産業構造を変え、経済を活性化していくという役割を担うために存在している。日本経済の活性化のために一緒にやりませんか」

88年の春、近藤は、夢を膨らませて興銀へ就職した。