掲載誌名:夕刊フジ
日付:1999年9月2日

タイトル:好奇の人(3) 夢を追いかける男たち


「ノるか反るか賭けに出て熱く生きたい」

「日本興業銀行を辞めるときは、やっぱり躊躇(ちゅうちょ)しましたね。最終的な気持ちの割り切りは日本は有史上いちばん豊かで、ここはユートピアなんだと。明日の食料も、飲み水もなくて餓死するような国ではない。健康な体さえあれば何をやっても生きていけると。この割り切りを持てたときに、やっけいけるぞとおもいました」

興銀を辞め独立


こうサラリーマンを辞めるときの覚悟を語るのは、出版業界に新風を吹き込む「レゾナンス出版」会長の近藤正純ロバート(34)である。

近藤は1998年4月、10年間勤めた日本興業銀行を退社し、独立への一歩を踏み出した。 近藤は、母方の祖父が70年代に相場と人生哲学を著した『一目均衡表』を現代版にリニューアルし、出版したい。それこそ孫である自分に課せられた使命ではないか、と考えた。

---バブルの崩壊、金融不祥事、ビッグバン、グローバルスタンダードの始まり---混沌とした今だからこそ、祖父の残した数々のメッセージは不易(不易)な価値がある。

そう確信した近藤は、周囲の反対にもかかわらず、祖父の本を"抱えて"前途多難を覚悟し、世間の荒波への漕ぎ出た。

とはいえ、日本興業銀行を辞めるに当たっては、随分悩んだ。大学の友人、職場の同僚、上司などに、相談して回ったが、ほとんどの人から本意を促され、慰留された。

近藤自身も、収支計画や事業プランを作成してみたものの、コストに見合うだけの収入を得られないことや、プランも細部まで詰められないことなどから不安は募った。

しかし、サラリーマンを我慢して続け、生きているのか死んでいるのか、わからない人生を送るよりも、暗中模索しながら好きなことをやったほうが、生き甲斐があると、独立を決意した。

祖父の本出版へ

第一の難関は、両親の説得だった。最初、父親に独立の意志を告げると、ごたぶんにももれず、父親はあきれ顔で、「おまえ頭がおかしくなったんじゃないか。バカな考えはよせ」と一蹴された。

しばらく日をおいて、再度、父親に相談すると、「本は、興銀に勤めながら片手間でやればいいじゃないか」と言った。母親も、自分の父親でもある祖父の本を出版することには賛同してくれたが、興銀を辞めることには反対した。

そんな両親に対し近藤は98年春のある夜、自分の思いのすべてを打ち明けることにした。

近藤は、「---好きなことをやって生きていきたいんだ」と気持ちを整理しながら話した。
---アメリカへ留学したとき、さまざまな国の人と友人になった。そのとき生まれて初めて自分の夢は何か、人生の目的は何か、を考えさせられた。

外国人の友達はみんな夢を持ち、その実現に向かって一生懸命に生きている。ところが、いくら探しても、自分には夢がないことがわかったんだ、と説明した。

両親を強く説得

「---でも、興銀は日本を代表する銀行だぞ」 父親が口をはさんだ。 「---確かに。でもアメリカでは無名だ。友達に話しても、何だその銀行は、で終わってしまう。でも。そんなことはどうでもいいんだ」と近藤は続けた。

---興銀に入り、恵まれた待遇を受け、世間でもステータスの高い銀行と評価され、興銀マンでいることになんの不平不満もない。だが、自分は本当に銀行が好きで入ったのか。そうではない。大銀行なら、という日本だけでまかり通 っている価値観に合わせて入ったに過ぎない。一流の大学を出て、大会社に入るという唯一の血肉の通 わない価値観に。自分は、興銀で出世することに価値観を見いだせない。やはり、好きなことをやって伸るか反るか賭けに出て熱く生きていきたい。そのために貧乏するなら、それはそれでいいと思う---。

父親は、近藤の目を見つめながら、何度もうなずいた。母親は涙ぐみながら、「いいわよ。あなたを信じているわ」

そうして近藤は32才の冬、ようやく独立に漕ぎ着けた。
そして、『一目均衡表』の出版の実現を目指して、出版社を歩き回ったが、世間の風は思った以上に厳しく冷たかった。