掲載誌名:夕刊フジ
日付:1999年8月31日

タイトル:好奇の人(1) 夢を追いかける男たち


自分は何がやりたいのか

「僕のビジネスは、アメリカへの留学体験がきっかけとなりました。好きなことにこだわって生きているアメリカの人たちを見て、このままサラリーマンを続けていてもいいのか、と思ったんです」 そう語るのは、「レゾナンス出版」会長の近藤正純ロバート(34)。

将来の夢は何だ

1994年10月。ニューヨーク州シラキュースの、あるレストラン。「ところでロバート。おまえの将来の夢は何だ」日本興業銀行の行員で、MBA(経営学修士)取得のためコーネル大学ビジネススクールに行内留学していた近藤は、一緒にランチを食べていた友人に尋ねられていた。

「オレはバンカーとして日本の産業・経済の発展のために尽くしたいと思っているんだ」 「おまえ、銀行が好きなのか」

思いも寄らない質問に、近藤は一瞬、戸惑いながらも、うなずいた。

「バンカーとして何を達成したいんだい?」
友人はさらに聞いた。
「感動だと思う。融資先の企業は僕の事業プランを受け入れ、経営者から『業績がよくなった。ありがとう』と感謝されるときの感動だね」

友人は、理解しかねるといった表情を見せた後、自分の夢は得意分野で起業し経営することなんだ、と熱っぽく語った。

おまえ、銀行が好きなのか----。その言葉が頭から離れず、考えさせられる留学生活が続いた。日本では仕事に自信満々だった分、受けた衝撃も大きかった。

-----オレは子供のころから銀行員になりたかったわけではない。ただ、「いい学校をでていい企業に就職する」という世間の価値観で就職したに過ぎない。世間がよしとする生き方に自分を合わせるのではなく、好きなことを追求するほうが価値がある。

生きる喜びを

その点、アメリカの人たちは生きる喜びを大事にしている。大学の駐車場の管理人は、毎年、2、3ヶ月カナダをキャンピングカーで旅行するのが楽しみだという。また、アパートの隣人は海が好きで、夏休みに学生たちにダイビングを教えるのが生き甲斐だという。彼らの所得はそんなに高くないだろう。しかし、人間としてなんと豊かな生活をしていることか。

近藤は、その日からずっと、自分は何がやりたいのか、追求し続けた------。 近藤が日本興業銀行を辞め、「レゾナンス出版」を立ち上げたのは、その4年後、98年3月だった。

行内留学に応募

設立以来、レゾナンス出版は、さまざまなメディアと連動させて派手なイベントを展開したり、さらに「出版ファンド」を設立して投資家から資金を調達、また最近では中小出版社の経理事務、流通 の代行業務を行う「パブリッシャーズ・クラブ」を創設するなど、出版業界に旋風を巻き起こしている。従業員は現在十五人。売り上げは九九年には約六億円。二〇〇〇年には十五億円を見込んでいる。

創設者の近藤は、「出版界の常識を変えた男」として注目されている。その近藤が、人生の転機となったのは、アメリカ留学だというのだ。アメリカでいったい何を見たのか-----。

近藤は六五年三月、サンフランシスコに生まれた。その後ニューヨークで育ち小学校一年のときに帰国。八八年、慶応大学経済学部を卒業し、日本興業銀行に入行した。興銀では、東京支店に配属され、五年間、同行と取引のない中堅企業の新規開拓に携わった。彼は、オーナ企業ではトップを攻めなければ成果 は得られないと考えた。毎日、十社の社長に「経営の話がしたい」とアポイントメントの電話を入れ、直接社長に面 談するという営業手法を取った。そのために日必死に、企業の経営問題を勉強し、提案し続けた。その結果 、五年間で合計約二百社の経営者と会い、五十社の新規開拓に成功した。

そんな業績が評価されて、近藤は93年1月、本店業務部に異動。中期経営計画の策定、営業マニュアル作成などに携わった後、計算センター、人材派遣会社など事務部門の別 会社化を企画・運営する業務をこなした。

近藤が、MBA取得のために行内留学募集に手を挙げたのは入社8年目の93年秋。動機は、「経営者養成専門学校のビジネススクールに行って、いろいろなグローバル企業の経営疑似体験がしたい」ということだった。

彼はそのとき、MBAを引っ提げて帰国すれば、必ず興銀の発展に役立つと確信していた。

ところが、実際にアメリカで生活すると、その価値観は大きく揺らぐのだった。